昭和五十六年九月十九日 朝の御理解
御神訓 信心の心得 「不浄のある時は先に断り置いて、願いあることを頼めよ」
神様は不浄をお嫌いなさる。二代金光様四神様は不浄は成就せぬ事ぞと仰せられたという事です。不浄とは成就せぬ事ぞと。私共が願いを立ててそれが成就しないね。 どうでもそれは成就してほしい。又、自分、神様もおかげ受けてくれよと、私共もそのおかげを頂きたいと願う願いが成就しない。いわゆる我情我欲が成就しないという意味とは違うですね。神様がどうぞ信心しておかげ受けてくれよと仰せられるような願いが私共もってのお願いを立てる。そしてその願いが成就せん。私共も成就せんという事は難儀であるし又は神様もその成就せん事を嘆かれる、ね。
何がその不成の元になっておるのか。そこに私は真の追求が要るとこう思うんです 只、人間的にこれが真だと思うておったのが昨日の月次祭にも申しましたように、人情から出る真、それは言べんに成るという字だとか(誠)、神情から生まれてくる真とは、この真理の真(しん)である、ね。私共がそのいわゆるより本当な事から真実な事を求めていくという事になってまいりますと、ここに現れている不浄というのは、自分の心にかかるね、自分の心中にある不浄。
だから又の御教えに、不浄、穢れは我が心で払う事もあれば受ける事もあるとおっしゃっておられる。同じ事柄であって自分の心で払う事もでければ、それを受けなければならんといったような、まあ、実に微妙なもんであります、ね。そこのところを合楽では非常に明快に説いてあると思うですね合楽では。
例えば、私共の観念の中に赤不浄とか黒不浄とかといったような事ね。人が例えば亡くなった時などはまあ、四十九日ですか、日のはれるまではお宮さん何かにはお参りしちゃならない、不浄がかかっておるとこういうわけです。女の方が月経(つきやく)なんかのおかげを頂いておる時も、それを私はちょっと体が汚(けが)れておるからというふうなふうに言うたり思うたり致します。
けれども、合楽理念を以てするとですね、むしろお礼を申し上げなければならない事ばっかり、ね。人間がおかげを頂いてこの世に生を受けてそして一生を終わって、亡くなるという事は、あの世への誕生とも仰せられるのですからね。
そりゃ、肉親をそれこそ愛別離苦の苦しみと申しますからね。愛する者と別れる苦しみ、死別の苦しみというのはそれは苦しみでもありぁ、悲しみでもあるのですけれども、本当の事を言うたらお礼を申し上げなければならない事。特に女の方達の赤不浄といわれている不浄もね、それは生理上当然の事である。無いならばむしろそれの方が不思議な事である、ね。おかげを頂きましてね月のものも順調にあるという事はお礼を申し上げるという事、ね。それをまあ不浄だという事はどういう事になりましょうかね。事が成就しないという事に繋がりますよね。自分の心でだから不浄を犯す事もありぁ払う事もある。
合楽で人間が人間らしゅう生きる手立て、今まではお粗末であるとか御無礼であるとかそれこそ、不浄であると思うておった事の中にもそれこそ御の字をつけて有り難いとお礼を申し上げていく心におかげが成就するのです。
我が心でなるほど払う事もあればそれを受ける事にもなってくるのです。私共の信心を進めていくとか高めていくという事がね、そういう心がいうならば、垢抜けていくというかね、何か自分の都合のよい事だけがおかげねというような考え方からは私は例え理屈の上ではわかってもやはり不浄は不成に終わると思うんです。
どこまでも一つの真理の追求でありいわゆる神情の追求でなからなきゃならん、ね 不浄のある時は先にことわり置いて願いある事を頼め。ところが私共がその観念がなかなか取れません。やっぱり不浄と心の中に、まあ合楽理念を頂くとね、むしろおかげだと言われるけれど心にかかる事がある、ね。例えば、お参りをしてくるお口をゆすがせてもらったり、手を洗ったりするなんかは、そういう形の上で清める事が、何か心も清まったような気が致します。お月次祭の時にあのお祓いを受けます、そすと何か本当に穢れ、汚れが払われたような心持ちになれます、ね。皆さんそんな気持ちしませんか。もう出来だけ近くで祓いを受ける時に、しいっ、しいっ、しいっとこうあのいわゆる神風にも似たようなさやぎのさやさやとしといわれるが、爽やかなあの祓いを受ける時に、それこそ身も心も祓われたような心になります。そうして御祈念であり神様の、いうならお祭りである、ね。だから祓いを受けようが受けまいが手を洗おうが洗うまいが、口はゆすごうがゆすぐまいが本当にいうたらその身そのままが本当いうたら、その身そのままそのままが有り難いのであります。
けれども人間はやはり、一つの感覚というようなものがありますから、ね。目で見える体でそれを感じる。それが心にも繋がる。それがおかげになる事もなれば不成に終わる事にもなるのです、ね。そこで教祖様はここでは詫びれば許してやりたいのが親心というふうに説きます、ね。ここにもありますように、自分の心に不浄を感じたならば先にことわり置いて願いある事を頼めとあるです。
教祖様はね合楽理念の芯になるところをもうすでに、このような表現で教えておられるのです、ね。自分にああ、体が汚れておるとか自分は今穢れておるとかいうようなものを、もし感ずるならばですね、先にその事をことわり置いてとおっしゃる。
願いある事を頼め、願いを聞いてやりたいというそこに神様の思いを感じますでしょう、ね。不浄のまま汚れたままという感じで神様に拝んでもこれは不成に終わるのです。いわゆる成就しないという事に終わるのです。
けどもそれを祓う手立てがお許しを頂く事です、ね。先にことわり置いてそして願いある事を頼めと。そのへんが非常に微妙なところです。だからそこにことわり置いてという事でも、いやむしろおかげとお礼を申し上げて願うという事になったらもっと、本当は素晴らしい事なんですね。お詫びをするという事は、ことわりを言うとい事はやはり自分というものが汚れておるとか穢れておるとかいうものがあるからお詫びをするのですから、だからそのお詫びじゃなくて、それを横着に横着な心とは違うんですよね。その辺が難しか。汚れはてておりながらねそれをこれがおかげと、まあ平気でおるという意味じゃなくて、ね、本当のいうならば、真、真理の真、この真がだんだんわかってまいりますとですね、一切神愛というような事がわかってくる、ね ですから例えば、難儀そのものも神愛ならば、汚れと思うておるそのものも神愛なのだと。神様のおかげなのだと。それを黒不浄のように思うたり赤不浄のように思うておる。もし、それを思うならば心にかかるならば先にことわり置いて願いある事、このことわり置いてというところが大事なんです、ね。
そして本当の理を悟らしてもらい、本当の事をわからしてもろうてね、お礼を申し上げれる心の状態が開けてくる。いうならば、神様に向こうていくその状態、いうなら、天と地と人という昨日のお話しをしてもらったんですけれども、自分の心が天と地とそして人と人も一緒にその天地の中に入っていけれる状態ね、そこにはもう、お礼を申し上げる事以外にない。例えば、私共が信心死ぬるという事なんかもこれはもう天地に還っていくのですから不浄であるはずがないです、ね。土より出て土に還っていく、還っていくのですから不浄であるはずがないのに私共の悲しみとか苦しみとかいうものが不成になっておるのです。
だから、私共がだんだんおかげを頂いてなら、成り行きを尊ぶとか、土の心とかいう事に徹する事によってね、天と地と人が一つになっていけれる心の状態そこには、一切がおかげ、一切が神愛といえれる、まあ、高度な心の状態が開けてくるのです。 そういうね、おかげを頂く手立てがね、成り行きを尊ぶとか大切にするという事なのですから実は大変な事なんです、ね。
神様のお心の中には清き所も汚き所も天地の神は隔てなくお守りあるぞとおっしゃる。大体は私共が清いとか汚いとか言うけれども、神様の目から御覧なったらまあ、いうならば、一視同仁なんだ。同じなんだ、ね。そういうまあ、いうなら、難しい事がわかるというのじゃなくて、私共が体験を通してなるほどそうだなあとね、心から詫びれば許して下さる。心がさっぱりする。いや、お詫びをさして頂いてよくよく考えてよくよく教えを頂いておったら、むしろお礼を言わねばならん事であったという時に、私はいうならば、神様の心の中に一つになった時だというふうに思います、ね そういう心で一つ願いが成就していく。そこにはっきりした答はですねそれが成就しないならば、まあだ、不完全なものであるとまあ悟らせて頂いてよいのです。
不成に終わっておる、ね。理屈ではわかっておる。だからむしろこれはお礼を言わねばならぬ事だと御の字を付けておる。それでいてそれがおかげに繋がらないならばまだ、自分の心の中に頭じゃわかっとるけれども、心ではそれがすっきりしてないという証拠なのですから、おかげが不成に終わっとればやはり、自分のやはり不浄がすっきりしていないとわからせて頂いて、まあ、いうならば、いよいよ土の心に徹し成り行きを尊び、いよいよ限りなく美しくならせて頂こうという精進から、こういう、素晴らしい御教えが本当にそうだなあ、神様が許して下さった証拠におかげがある。 先にことわり置いて、願いある事を頼んだらおかげになった。だからもう、そこには不浄は許されておるというところから、その不浄は無い。一切神愛とわからせて頂く一つの過程にですね、不浄、穢れは我が心で払う事もあれば、犯す事もあるのであり、それを例えば、心に犯しておる時には先にことわり置いて、願いある事を頼め、ね。その詫びる姿勢が求められるのですね。その向こうにいうならば、真から真を追求するいうなら、昇華、心が昇華というのは昇る華と書いてあるね。
自分の心が同じ事柄であってもその物の見方、考え方が変わってくるという心を、昇華していくというのです。我が心が神に近づいていくというのです。
まあ今日は理屈っぽいお話しをいましたがね、先ずは私共の場合はね、不浄、穢れのある時には先にことわり置いてと仰せられる。そのことわりのところをしんからお許しを頂いたという感じのするところまでね、いうなら御祈念をする、改まっていくという事が大事ですね。
どうぞ。